ダラダラと新聞記事や読書のメモを綴っています。
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「逆襲」というタイトルは必ずしも原題の忠実な訳でもないし、著者の意図を汲み取っているかというとそうでもないよなーと思ったり。
それはさておき、気になった部分の抜き書き p130(10章の最後) ミューチュアルファンドの運用担当者は、当該年度の運用成績が良くない場合は、第4四半期になると負けている分を取り返そうとリスクを取りに行く傾向がある。 トレーダーも損を出した後でリスクをさらに取りに行く傾向がある。 → ロスカットルールは、単純に財務損益を能動的にコントロールする(意図しないタイミングで損失が出るのを防ぐために、損失を確定させるためのポイントを設ける)以上の積極的な意味があるんですね。 p182(13章の最後) GMは自分たちの販促キャンペーンの効果の測定も評価も全くやっていなかった。 → だから潰れたんだよと言ってしまえば簡単だが、さて、翻って似たような事例が自分たちのビジネスにもないか考えてみましょう。 p192(14章) 一般に値上げには抵抗を覚える消費者も、インフレによる減価には意外と無関心である。 → 鶏が先か卵が先かみたいな話だが、主流派の経済学の範疇では説明できないが、行動経済学やメンタルアカウンティングまで視野を広げると、「マイルドなインフレは望ましい」と言えるわけですね。 p213(15章の最後) 野菜の無人販売所は、確かに野菜を金を払わずに持って行く奴がいたり、時に売り上げを持って行く奴がいるが、数は少なく、大部分の人はきちんとお金を払う。したがって、比較的レアな不正行為を防ぐための手段を講じなくてもコスト対比で見れば合理的な形態である。 → 実際の社会は、非協力ゲームが想定する世界よりも相互の信頼によって成り立っているようである。数々の経済実験で、ナッシュ均衡に収束しない事例が報告されているのと同じ。 PR
私自身は、震災以降特に注目を浴びるようになった「ノマド」とか「評価経済」とか「露出経済」などといった概念には基本的にネガティブな評価しか下しておりません。この種の議論を何年も前から展開している岡田斗司夫さんのブログに掲載されたインタビューの内容を読んでもそういった印象は変わりません。
ただし、このインタビューは基本的な事実誤認などをたくさん含むわけですが、それでもある程度具体的に「評価経済」というものを語ってくれているのでいろいろと参考になるものがありました。以下、注釈を加えるような形式で少し感想を(元記事とは大きく順番が異なります)。 ――今後、企業はどう変わるのか。 ええと、一番抵抗を感じた、そして、この種の議論の理解の糸口になりそうな議論なのでここから入ります。まず「明治の小説~クレヨンしんちゃん」は完全に間違っていますよね。 確かに、昭和の初期まで大卒で大企業の課長クラスになれば、家族に加えてお手伝いさんを2-3人雇えるくらいの給料はもらえた。15-20人は大げさでも、1人働くと奥さん、子供2-3人、お手伝いさんや書生など計7-8人を養えるくらい大企業に勤めるサラリーマンは稼ぎのいい仕事だったといわれています。いま、上場企業の役員でも都心に住宅ローンなしで持ち家があって、家政婦さんを雇える人なんて何人いるでしょう? ただし、この裏にあるものを忘れてはいけない。お手伝いさんはどこから来たか?そう、複数の子供を養えないが故に働きに出していた貧しい農村からです。子供ができたはいいけど養えなくて、特に女の子は売りに出されていた時代というのは日本においてさえまだ100年前の出来事ではありません。家を継ぐ長男以外は結婚が許されなかった地域というのは少し調べるとかなりあります。働き手としては必要ですが、結婚して子供ができると農地を分割相続していくことになり、財産の散逸が起きるためです。大まかな目安としては、農村は夫婦共働きですので、夫婦二人で働いて子供2-3人食わせようとするとかなり苦しかったというところでしょうか。 ちなみに、サザエさんの世界は、波平さんとマスオさんが働いて、フネさん、サザエさん、カツオ君、ワカメちゃん、タラちゃんの5人を養っている。クレヨンしんちゃんの世界は、ひろしが働いて、みさえ、しんのすけ、ひまわりを養っている(一時期むさえまで居候していた)。前者が稼ぎ手2人で扶養家族5人、後者が働き手1人で扶養家族3人。大差ないですね(居候を入れたら増えている。さらに住宅ローンまで抱えているのでひろしはなかなか頑張っています)。そして、農村も含めて日本全体の平均的な姿とも言えるでしょう。 つまり、「都市部のサラリーマン」だけを取り出すのではなく、日本全体で考えるなら、時代が下るに連れて幾らか豊かになっているというのが実情ではないでしょうか。 したがって、上記の歴史観はただの事実誤認に過ぎないということです。ただし、「経済活動を営む上で社会全体で生産活動に従事する人の割合は下がっている」ということは事実で、その延長線上に評価経済のイメージを描くことができるのではないかと思いました。 つまり、「失業」と「働いている」のボーダーがかなり変わると思うんですよ。「みんなが生活していくのに必要なものを生産する活動に従事する人数がどんどん減っていく社会」というのは。上記のとおり、人類が、少なくとも先進国に限れば第1次産業に従事する人口がどんどん減っていったのは、イギリスなどほんの一部の国を除けば、せいぜい19世紀後半からで、20世紀の後半あたりから耐久消費財を生産する2次産業に従事する人口もピークアウトし始めた。これを「失業問題」と捉えることもできるし、「食うために必死で働かなくてもよくなった」と肯定的に評価することもできる。 特に欧州なんか、ここ30年くらい失業率が高止まりしていて、若年失業率が一貫して20%超えている国とかもある。また、一応働いている人も「その仕事がなくなったとしても、明日からその労働によって供給される財・サービスがなくなって困る人がほとんどいない仕事」って言うのがかなりあるわけです。一例を挙げれば、劇団の団員とか博物館の学芸員みたいなところでしょうか。不要だと申しませんが、この仕事がなくなって困る人、死ぬ人はほとんどいないと思う。劇場でお芝居が演じられなくなったり、博物館が開かなくなると、生活の豊かさが下がったと感じる人はいると思いますが。 上記の引用の中の「5人に1人が働いて、残りの4人が失業」というのは、もう少しフォーマルな言い方に直すと「人々が生活していくうえで不可欠な財・サービスを提供する仕事は就業人口の2割程度で賄えてしまう社会が来るかもしれない」ということではないでしょうか。就業人口の8割の人は、音楽家とか劇団員とか画家とか研究者とかそういった仕事で付加価値を生み出し、就業人口の2割の人が生み出す財・サービスを消費していく。そんな社会なのではないでしょうか。現在でも上記のような職業に就いている人は会社員の生活スタイルと比較すると「働いているかどうか微妙な就業形態・報酬形態の人」ってたくさんいるわけでして。そう考えると以下の記述もある程度納得できます。 ――個人は何をすればいいのか。 「奢る」とか「愛されニート」と言うと、何もしていない人のように聞こえますが、体を動かす、何か作業をすることで貨幣を生み出すかどうかという視点で見るとそれは「ニート」という解釈になるのですが、それは「ゴロゴロしている」ということではなく、上記のような職業が増えると考えればよいのじゃないでしょうか。 とはいえ、おそらく、就職活動中の学生さんが両親に対して、岡田さんのインタビュー記事などを読んで「俺ミュージシャンとして生きていく」と言えば「馬鹿なことを言わないで、堅実に生きていくことを考えなさい」と言われるでしょう。現在においても、「生産に直接従事しない職業」はたくさんあるわけですが、「それで生計が立てられるのはほんの一部の人だけ」というのが現実でしょう。このあたりは以下の発言で岡田さんも十分お分かりのようで。 ――評価経済のモノサシは何か。 1億円よりツイッターのフォロワー100万人の方が価値があるというのは同意です。しかし、これが「百万円とツイッターのフォロワー1万人」だとどうでしょう。きちんと実態のあるユーザーを100万人集められればそれはタレントとかミュージシャンとして成功しているというのと同義といってよいと思います(つまり、現在の社会でも生活できている)。しかし、ローカルな世界で数千人程度のフォロワーやサポーターしか集められない「ちょっと才能があるだけの人」が「必ずしも生活に不可欠ではないサービスの提供の対価」として「奢ってもらえるようになる」かどうかは私自身は確信が持てません。その意味で以下の記述には基本的に同意できません。 ――今後、モノが不足する? ただし、一流の芸術家の作品をTVなどで観るだけでなく、そういう人の作品はたまに見ればよくて、普段は(二流以下の)町の劇団とか楽団の作品を楽しむことができるのも豊かさだと感じる人が増えてくるかもしれないという程度のことはあるかもしれませんね。実際に世界で起きていることは、インターネットの普及で一流の作品・製品へのアクセスがすごく簡単になったので、そういう二流以下の作品・製品がどんどん廃れているということなんですけどね。 ということで、「評価経済」の一つの解釈としては「日本が欧州化するってことね」というのが私の感想。 欧州の古い町を訪ねると趣があって実に素敵なのですが、そこに住む人たちは、ほとんど生産活動に従事していない。教育とか芸術とかそういうもので生計を立てている人が多い。あるいは「ものづくり」といっても例えばカバンとか靴のような革製品で「似たようなものが中国製で5分の1くらいの値段で郊外のアウトレットモールで売っている」ことが多い。 要するに「智恵」とか「情報」とか「評価」とか「わかる人にはわかる価値」を付加し、「その価値をわかってくれる人」から「モノの価値」だけで測るとその製品・サービスの対価としては随分と割高な報酬を受け取ることで生活している人たちがいる。これが「奢ってもらっている」状態なのか、「一つ上のクオリティをもたらす価値を提供していることへの対価」なのかは判断の分かれるところ(少なくともそこに価値を見出さない人は欧州にでさえいる)。 こういうことが日本において実現可能か、さらに持続可能かと言うのは、現在の欧州債務危機を見ていてもいろいろと考えてしまうことではありますが、あたかも日本が最先端を行っていると言わんばかりの発言が散見されますが、日本は、「ネットの普及」という意味では多くの先進国から後れを取っているのが現状ですし、「評価経済の普及」という意味では欧州に少なくとも50-60年の後れを取っているというのが私の感想。 次の時代を模索する一つの実験的思考として面白いアイディアを含んでいるのは認めますが(昔、堺屋太一さんが唱えていた「知価革命」に通じるものを感じます。)、かなり厨二的だねと思ったのですが、いかがでしょう。 |
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